性暴力を告発する世界的な運動が広がっています。日本でも、勇気ある告発が続き、支援の輪が広がっています。そのうねりの一環として、去る4月28日、新宿アルタ前で「#私は黙らない0428」という街頭宣伝が開かれました。
そこで、代読を含め、12人が次々に壇上に上がりスピーチをしました。(全体の動画は以下で見ることができます。youtube.com/watch?v=Fayopj-xn9Y。2018/5/25アクセス)動画を見ると、主催者は20代の若い人たちのようで、しかもあの安保法案反対で活躍したSEALDsのメンバーも含まれていることに感銘を受けました。スピーチはそれぞれ力強く、訴える力があってすばらしいものでした。スピーチの最後を締めくくったのは、SEALDsでも活躍した女性でしたが、その内容は衝撃的でした。
彼女はその中で、自身のレイプ被害について述べたのです。(彼女のスピーチ原稿は、以下のウェブサイト上で読めます。tokyofeminist.wixsite.com/waks)彼女は、被害にあった直後に、「あなたがそんな格好しているからいけないんでしょう」と言われたそうです。「その言葉は私を殺した」・・・。彼女は、その時自分が必要としていたのに聞くことのできなかった言葉を、「どこかで必要としているであろう女たちに届ける」ために壇上に上がった、と言います。その彼女が「届け」た言葉とは──「私の痛みはあなたの消費のためにあるわけではなく、私の選ぶ洋服はあなたへの招待状でも許可証でもない。私は棚に陳列された商品ではなく、笑顔を貼りつけられた人形でもなく、自らを定義することを覚えた私は、あなたの一時的な欲求とシステムにコントロールされた物言いに負けることがない」
この街頭宣伝には、もう1つ特筆すべきことがありました。
スピーカーの一人が「元セックスワーカー」で、彼女が、セックスワーカーに対する人びとの(善意に基づく)差別の不当性を訴え、「何を変えたらセックスワークは安全になるか」「どんなときセックスワークが楽しいと思えるか」をともに考えてほしいと求め、最後に「どんな仕事にも人権がある!」「セックスワークはお仕事です!」というコールを参加者とともに行なったのです。
いま日本の社会で一定の力を持った若者たちが主催した、性暴力を告発する運動において、それが行なわれたことに大変驚きました。
このスピーカーは、次のように訴えていました(発言は「趣旨」です)。
「セックスワーカーは『モノ』ではない」
「セックスワーカーは高い報酬を受け取っていると言われるが、労働と認められ社会保障があるわけでもなく、全く高くない。それすら『偏見代』だと言われる。いくら支払われたら、暴力を受けてもいい、偏見を受けてもいいということになるというのか。セックスワークは暴力を受けることが仕事ではない」
「『やめる』『させない』ことが解決なのではない。仕事中のセックスワーカーの声も聞いてほしい」
「私は棚に陳列された商品ではない」
「セックスワーカーは『モノ』ではない」
片やホテルの一室で、(おそらく)知り合いの男性に、片や性風俗店の一室で顧客に、の違いはあれ、性的な「モノ」として扱われたことの痛みへの告発という意味で、この元セックスワーカーの女性の訴えは、上のレイプ被害を受けた女性の言葉と、核心のところで共通しています。それらは、ともに性暴力を受けた痛みから発した言葉であり、だれからも否定されえないパワーをもっています。
性的な「モノ」、性的な「商品」のような扱いは、彼女たちだけでなく、だれも受けるべきでない。そのように扱われる痛みを感じさせられる人を一人でも減らしたい──そう願わずにはいられません。
「『やめる』『やめさせる』ことが解決なのではない」と、この女性は言うけれども、被害を受けた人の痛みの訴えを否定することなく、そのように願い、その願いをかなえる社会を展望することはできないのでしょうか。
以前、韓国の性売買被害者の支援団体ネットワーク(ハンソリ会)のメンバーに、「当事者が自らの権利を要求することには何の問題もない」と言われ、とても腑に落ちたことがあります。性産業の中で現在生活を立てている人たちが、正当な報酬を求め、安全と安心を要求するのは当然のことだというのです。
しかし、ハンソリ会の目的は「性の売買をなくすこと」でした。
ハンソリ会が教えてくれたことは、システム、産業としての性売買をなくすのを目指すことと、現在その中で働いている人の権利擁護とは両立する、ということでした。それは、原発に反対し、その廃絶を求めることと、現在原発で働いている労働者の権利を擁護することが両立するのと似たところがあります。
性産業は、国際的な人身売買、児童買春、成人の商業的性的搾取と切っても切り離せない関係にあります。
また、異性愛中心社会を前提にすると、性産業に男女雇用機会均等法が適用されることはないでしょうから、性産業は「買う男性」と「売る女性」という関係性の承認と固定化を通じて、ジェンダーステレオタイプ(男らしさ、女らしさ)とセクシュアリティにおけるジェンダー不平等(男の「性」のあり方、女の「性」のあり方の不平等)を強力に推進し、発信するでしょう。いや、何も将来の予測としてではなく、性風俗営業が適法に行なわれている現在の日本においてすでに、これらのことは無視できないレベルで生じています。
少し考えただけでも、「セックス」を「お仕事」として承認することは、他人の権利侵害や性差別の助長といった重大な社会的、公共的な問題と密接に結びついていることがわかります。(これを唐突ですが憲法の考えで言えば、「職業の自由」は不可避的に「公共の福祉」〔他人の人権や社会の秩序等〕と関係するがゆえに、「公共の福祉に反しない限り」認められるものだということです〔憲法22条〕。)
「私が選んだ」「私はこの仕事が好きで続けたい」という当事者の主張が決め手になるわけではありません。
ヨーロッパを中心に、売春業者は当然のこと、買春者も処罰される(その一方で、性を買われる者は福祉と支援の対象とされる)「北欧モデル」と呼ばれる買春者処罰法が急速に広まっています。「決め手」となった理由は、人身売買を減らすことと、女性に対する差別と暴力を減らすことです。欧州議会が、加盟国に同法の制定を推奨する決議すら行なっています。
性暴力を告発する世界的な運動についての情報とともに、セックスワーク論を時代遅れにしつつある世界的な性売買規制の動きについての情報も、同じように広く日本に伝わることが切望されます。
(注:途中に「ハンソリ会」のことが出てきますが、それについて詳しくは、「韓国『ハンソリ会』との交流の記録」ポルノ・買春問題研究会「論文・資料集」6号、2005年、59-65ページ。)