「やると思った・・・」の先にあるもの、そして更にその先にあるもの
子供のころ、なにか粗相をすると親や教師から
「ほら、やっぱりやると思った」
とよく言われたものです。
大人になっても時々、なにか失敗をしでかすと
「やると思ったわ」
などと言われる時があります。
根本的にミスをしてしまうというのはこちらの問題なので、
そこは反省すべき事だと思うのですが、
かといって
「やると思った」
という発言はそのときに本当に必要なのでしょうか?
もし仮に相手が失敗をしそうなのに気がついてなくて、
とんでもないトラブルが発生しそうなのであれば、
そして、そのことを本当に心配しているのであれば、
トラブルが起こる前に助言してあげることが親切というものです。
(ちなみに、やると思ったと言う場合はたいがい言った本人には被害のないケースが多い)
ぼくが言いたいのは、
心配してほしいとか、親切にされたいということではなく
繰り返し言いますが、そもそものその発言って必要か??ってことです。
支配。
極端な言い方をすると、それは上から目線からの支配みたいなものなのではないでしょうか。
お前がミスることを理解してたよ、すごいだろ?
おれはお前のことをなんでも知ってるんだらね。
だから、お前はおれに従ってたほうがいいよという支配のための洗脳の小さな一歩なのです。
大人になってからそういうことを言われたら
ぼくはすぐさまこの支配について考えるようになりました。
つまり、、この人はぼく上から見て支配しようとしている、と。
そしてぼくは思うわけです。
お前がぼくを支配しようとしていることはわかっているから、その手には乗らん!
そうやって支配しようとしているお前を知っているおれのほうこそ
知らないふりをしてお前を支配してやる!!
これ即ち支配合戦!
戦争は終わりませんわ。
これと近い話で「お前、頑固だなぁ」ってのもあります。
相手に頑固だということは、自分の意見を曲げていないこと多く
双方が譲り合っていないという状況なのですが
その際の最終兵器の
「お前、頑固だなぁ」
これを持ち出すことこで
融通の利かないやつだという烙印を押してコントロール。
相手を自分の言いなり、つまり支配の第一歩です。
そしてぼくは思うわけです。
お前がぼくを支配しようとしていることはわかっているから、その手には・・・・・