『今、このとき』の会話
先日、とある打ち上げ会場で出会った出版社の人から
ぼくがいた頃のビークルのライブに良く行ってましたよと伝えられ、
その会話の中で
「わたし、ウムさんの色の服を着て応援してましたよ」
と言われました。
「??」
色とは・・・?
ファンの方でメンバーの色を勝手に決めたりしていたのだろうか?
「色ってなに?」
とぼくが聞くと
「え!?メンバーみんな、イメージカラーがありましたよね?」
「ん??そんなもの設定した覚えないけどなぁ」
「えーー!あったじゃないですか?つなぎの色ですよ!!」
「つなぎ??」
「わたし、わざわざ駅で着替えて行ってましたからね、青いつなぎに!!」
つなぎなんか着たことねーー!!
だれかと間違えているのだろうか?
少し掘り下げて聞いてみると
90年代後半から2000年代前半に下北沢シェルターを中心によくライブを見に行っていて(確かにやっていた)、ライブ中に卑猥なことを叫ばされていた(確かにそんなこもとさせていた)そうです。
本人も言っている通りやはりビークルのライブに来ていたことは間違いなさそうで、一箇所、メンバーのカラー&つなぎ問題のところだけ記憶がねじ曲がっているみたいですね。
結局、当の本人(ぼく)がどれだけ否定しても、
その人は最後までぼくが青いつなぎを着ていたと言い張るので、
最終的に面倒になって
「あー、着ていたときもあったかもなぁ」
と言ってその場から退散しました。
人の記憶なんつーもんは曖昧なものですな。
結構な勢いで色々忘れて、勝手に記憶を捏造しているものです。
そして、その人に限らず、ぼくも含めて曖昧な記憶のままいつも会話をしているんですね。
もちろん過去のことだけではなく未来のことを語る会話なんか、さらに曖昧なんじゃないかしら。
夢をもって語った未来、永遠に続くと思って伝える愛の言葉・・・。
こういう事は耳障りが良いから
恥ずかしながら僕だって調子に乗って語ったりしているのですが、
果たしてどれくらい形になっているのでしょう?
それが永劫に続いていくという保証もないのにね。
『その時、そう思ったんだからいいじゃない!』
それを言われたら身も蓋もないわけなんだけど
世の中はきっと、未来に期待したそういうテンションで回っているのでしょうね。
勝手に変えられる歴史、なにも見えない未来。
それでも、おおいに胸を張って語られる言葉・・・。
未来や過去といった時間軸が絡んでしまうと、言葉は意外といい加減なツールになってしまうのかもしれませんなぁ。
やはり『今、このとき』を話すときにのみに言葉は一番説得力があって、 そんな会話って嘘くさくなくて素敵ですね。