〜 色々なことをされてきた中で、現在の菊沢さん自身の本職というか、中心となる活動は何になるのですか.
菊沢:役者ですね。でも役者に虚しさを感じる時もありますね。本当に。
結局、役者は無から有を作り出す人の、その有の中に入って行って、うまくアレンジしていく職業だと思うんですよ。博多で劇団をやっていた時は、自分で「こういう演劇がやりたい」っていうのを出して、皆で話し合ってやっていたんですけど、東京でフリーでやってると、なかなかそうはいかないから。次に行った所、運良くオーディションに受かって入ったとしても、どの役になるのかは分からないし、その作品がどうなるのかも分からないじゃないですか。自分のやりたいことと違っても、その中で折り合いを見つけていかなくちゃいけないという。
そういう意味では、本当に自分がいいなって思える人たちとずっと作っていけるっていうのはベストですけどね。でも、女性と一緒にやることが多いから。女性って変っていくんですよね、本当に。体も変わるし、子供が出来たらしばらく作れなくなっちゃったりするから、さびしさを感じることは多々ありますね。
〜 演劇に出演する時の役者と、ダンス作品でダンサーとして自分の体を使う時とで、思考的な違いなどあるのでしょうか。
菊沢:それがないんですよね。俺の中には、一つあるとすればロックであるかどうかなんですよね。音楽なんですよ。だから、ダンスでもロックなのが好きだし、演劇でもロックならいいし。自分自身がロックであれば。ダンスをやっているってことに対して、人から見ればダンス的な状況かもしれないけど、自分にとってはロックであるっていうことを体現しているだけであって。
そういう意味では演劇だからとか、ダンスだからっていうのはあんまりないです。
〜 ロックは菊沢さんにとっての思想みたいなものなのでしょうか。
菊沢:そうですね。当時は、何かありませんでした?そういう「ロックな人生」とか、「ロックであるべきだ」とか。
自分がギター弾き始める前に、鬱々とした時代が高校の頃にあったんです。何か親からは「料理をやって家を継げ。」って言われるか「お前は公務員になるしかない。」みたいな感じで言われ続けていて。「そうか、俺の人生ってそういうものなんだ。」ってなっていた時に、当時バイト先だった喫茶店のマスターが、手拍子でブルーハーツを絶叫して歌うっていう活動を屋外でやっていたんですよ。一人で(笑)。で、それに「きくちゃん一緒に来る?」って言われて。バイト終わった後に夜の小倉かどっかに「あ、じゃあ行きます。」って付いて行って。
その活動を始めた時に、親からは「この世界しかない」って言われていたけど「こういう世界もあって、ここで生きてもいいんだ。」っていうことが分かったんですよ。
その時に、自分がどういう状況に陥るか分からないけど、このことが根底にある人生を生きようって思いましたね。何か雨がザーッと降っていて。でも、やっていたんですよ、仲間で。誰も見ていないのに。で、金網かなんかに登って、わーって歌っている時に「うん、やっぱこれしかない。人生は。」って。
今も、そこからぶれてないですね。それだけは。
〜 演劇であろうがダンスであろうが、自分の魂に触れる何かがあるかないかということですね。
菊沢:叫ぶっていうことですかね。力いっぱい。
苦しんでいた人が社会に出て行く瞬間とか、
そういうのを見ているのが好きでした。
〜 ここまで菊沢さんの博多時代の成り立ちや、活動について聞いてきましたがその時期に創作活動と全く関係のない人との付き合いなどはありましたか。
菊沢:青年センターで、宗さん(前述:くうきプロジェクト発起人)が「しゃべり場」っていう企画もやっていたんですよ。その青年センターには、青年層で引きこもりだったり心に傷があったりして、人や社会とうまくコミュニケーションが取れない人もたくさん来ていたんです。だから、そういう人たちが誰かと出会って喋る機会として「しゃべり場」っていうのを始めて。
俺は司会で入って。それも何年かやっていたのかな。 毎月その人たちと話して行くうちに、少しずつ人が変わっていって。悩んで苦しんでいた人が社会に出ていく瞬間とか、そういうのを見ているのが好きでしたね。
〜 その人たちと、しゃべり場以外で会うようなこともありましたか。
菊沢:公演を観に来てくれてました。普通に。それは「くうきプロジェクト」も連動していて、さっき「くうきプロジェクト」で食べ物も出していたって話をしたんですけど、「しゃべり場」の人たちが食べ物のパートを担当してくれていて。そこで商売をするから、お客さんと接する中でまた癒されるし。楽しそうだしね。人にとって重要なのは何よりも人とのコミュニケーションなんだってことが分かりました。
先に作っていくことをやって行かないと、下がっていくしかない。
〜 2010年に東京に居を移してから、NODA・MAP(野田秀樹氏によるプロデュース公演)には何作出演されたのですか?
菊沢:NODA・MAPは6年か7年ずっと出ていたので、6・7作になりますね。
〜 NODA・MAPに参加していたことで、東京での活動が拡がっていったのでしょうか。
菊沢:まず、そこにいる人たちはアンサンブルとはいえ、才能がある人たちがかなりいたので、その人達と一緒に何かやることもありました。後、オーディションの時に書類でなかなか落ちなかったのはNODA・ MAP効果だと勝手に思っています。
〜 野田さんの演出を直接受けることも多かったですか?
菊沢:もう、ガンガン。野田さんは結構メインの人は自由にやらせるんですよ。でもまあ、アンサンブルはある意味では、絵を作る道具立てみたいなところもあるから、すごく、こう、的確に来て、やれないと下げられるっていう、そういう世界なんで。如何に野田さんが言う前に、野田さんが何をしたいのかっていうことを考えて、出来るアンサンブル同士で「あ、ここはこう。」って目で合図して、先に作っていくことをやっていかないと、出来なかったら、もう下がっていくしかないんで。