シェアか所有か?
先日、自転車を購入しました。
十数年間乗っていた自転車のタイヤが壊れたので修理にいくと、
「タイヤ以外にも色々なパーツがダメになっているので、
このまま乗り続けるなら悪くなっているところを修理したほうがいいですよ」
とお店の人に言われました。
聞いてみると修理の総額は新しい自転車が買えるくらいの金額です。
根っからの貧乏性な上に
基本的にあまり物が捨てられないので、
もじもじと悩んでいたら
店員さんから
「今、悪くなっているパーツを交換しても、
10年以上乗っていたなら他の部分も恐らく時間の問題です。
このまま乗っていると今後さらにお金がかかると思うので、
新しいのを買っちゃったほうが安いかもしれませんね」
という、実に芯を食った一言をいただき購入を決心したのでした。
ぼくは物にも執着しますが、お金にはもっと執着するみたいです。
このあいだまでバイクを買おうと思っていたのに、
不思議なことに自転車が我が家にやってきました。
人生とは計画通りにいかないものです。
子供の頃、自転車を買うと前輪の泥除けに住所と名前を書いてもらいました。
ぼくの地元ではみんなそうしていました。
(当時はどこでもそうだったのかしら?)
無くしたときや盗難されたとき、事故にあったときなどなど、、
名前や住所が書いてあると色々都合が良かったんでしょう。
いまよりもプライバシーの意識がなかったとも言えますね。
また名前が書いてあるということで、
自分の物であるという思いが強くなり、
物を粗末にしないという意味もあったのでしょうか。
いずれにせよ、今、名前の書いてある自転車って全然見ないですね。
思えば、昔はいろんなものに名前を書いていた気がします。
小学校低学年までは筆記用具からパンツに至るまで、
自分の名前が記載されているものに囲まれておりました。
それは、他の人の物と間違えない、間違えられないという目的と
自分のものだから自分でちゃんと管理しないといけないということだったと思われます。
最近、中国でシェア自転車放置のニュースが出ておりました。
なんでも大変な数のシェア自転車が放置されてるとか。
https://www.businessinsider.jp/post-165809
すごいことになってます。
こうなったしまったのには色々な理由があると思うのですが、
そのひとつに、乗る人に所有権がないというのがあるのかもしれません。
物をシェアをするということは利用者には所有権がなく、
当然のことながらその物に名前も記載されておりません。
これが自分のもので明確に名前が記載されていたら、
ここまで無責任に乗り捨てられないでしょう。
シェアすることが資源の無駄使いを抑えるという意味があるのであれば、
これは全く逆の方向に向かっていますね。
社会主義の崩壊の理由のひとつが所有権の放棄だといわれております。
このシェア自転車が国営だとしても民営だとしても、
所有権を放棄することでこういうことになってしまうのであれば
人間は他人と物をシェアできるほど、まだ成熟していないのかもしれませんね。
もちろん、中国の人の国民性とかも関係するでしょうけど。
かといって所有を強く促し、所有することに固執すれば
それはそれで諍いが起きるのは戦争などを例にとっても間違いないことです。
かくいうぼくも、資本主義の末端でその恩恵を受けて暮らしている人間なので、
先に書いたように物やお金にちゃっかり執着している側の人間なのですが。
所有権がないと物を粗末にするけど、強く所有権を求める始めると諍いが起きる。
その辺のバランスの良いところというのは実に難しく、
残念ながら目の覚める回答のないままこの文章は終わります。
このあいだ実家に帰ったとき、
母親が青い蓋のタッパー(?)みたいなもののひとつひとつに、
マジックで丁寧に産屋敷と名前を書いておりました。
名前を書いたか理由はよくわからんけど。
ケチなのか、物を大事にしているのか、どっちなんだ?