「エシカルライフのすゝめ」― 日本の文化的道徳観と「エシカル」―
こんにちは。藍です。
ライターを目指しながら、普段は会社員をしています。自然派生活、エシカルな生活に興味があり、少しずつ日常に取り入れられるよう勉強中です。
今回は、日本の文化的な物事の見方・考え方・感性を捉えているとされる「思いやり」や「お互いさま」、「もったいない」などの「道徳観」とエシカルライフの関わりについて、少し考えていきたいと思います。
さて、エシカルライフを実践しよう!と意気込むと、様々な現実的な問題に直面します。
『エシカル革命』にはこのような記述があります。
たとえばあなたが地球のために何ができるのかを考えて、少しずつ実践していったとします。すると、社会や暮らしの周りには、その「妨げ」になるしくみが存在していると感じ始めるはずです。…(略)なぜなら、社会のシステムそのものが確立していないからです。こうした「もやもや」は、私たち生活者が解決したくてもなかなかできません。ただしこのことは、私たちが「声をあげる権利」を持たない理由にはなりません。むしろ、だからこそ、理想の世界や社会の実現を求めて声をあげる必要があるのです。
日本は特に、欧米諸国よりもはるかに社会変革のアクションが目立たない国だと思います。「声をあげる」ことへのハードルの高さ、「社会をより善く変える」ことへの自身の無力感を感じてしまう人も多いようです。
先程引用部分で紹介したの本には、スーパーの「ご意見箱」に「フェアトレードの製品を置いてほしい」との意見を書いて入れてみたところ、実際にフェアトレードの製品が納入されるようになったという、「声をあげる」ことの実践・成功例が書かれていました。このように自分に身近な、よく買い物をする場所に「ご意見」を伝えるのも「声をあげる」ひとつの方法だと思います。
確かに「声をあげる」ことへハードルを感じ、結局そのまま、なんとなく日々が過ぎていく…ことが多いように感じます。しかしながら、声をなかなかあげないかもしれないけれど、本当は社会の仕組みや、より善い生活を妨げるものに対して、何かしらの違和感を感じている人は少なくないのではないのでしょうか。
声をあげない、変革を起こさないことで「和」を保とうとすることは平和な社会にとって大切な感性です。一方、見方によっては「声をあげる」ことのハードルになっているようにも見える、日本の文化的な道徳観ですが、好転させればその感性をエシカルライフを実現させる原動力にも変えられると私は感じているのです。
冒頭にも挙げたような日本の文化的な道徳観には他にも、「私たちは自然に生かされているのだ」という感性や、「侘び寂び」、老子の言葉に由来する「足るを知る」という考え方、神道の「中今(なかいま)」などが浮かび上がってきます…*
日本の江戸時代は生活の基盤がエシカルだったとも言われていますネ。
自分のこれまでの生活から少しずづ「エシカル」を取り入れていこう、という意識で私も過ごしているものの、やはりある程度の社会的な制約を感じてしまう時もあります。「人や地球環境、社会、地域に配慮した考え方や行動」(一般社団法人エシカル協会 ホームページ)を取るために、自分なりに考えても「選択」できる選択肢すらない…という場面もあるかと思います。
エシカルライフを始めることよりも、「声をあげる」ことへのハードルの高さを感じるかもしれません。でも、どこかで同じように感じている人も少なからずいるのではないでしょうか。エシカルライフは自分にとっても、社会にとっても、自分なりにできることを考えて、少しずつ行動に移していくことが大切なのだということを、心の隅に置いて過ごしていきたいですね。
*参考図書:末吉里花「はじめてのエシカル ―人、自然、未来にやさしい暮らしかた―」山川出版社
引用図書:末吉里花「エシカル革命―新しい幸せのものさしをたずさえて―」山川出版社