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「排除される胚の立場を考える」産婦人科医・久具宏司さんとの対話

「ダイアログフォーライフ」第1回

着床前診断が事実上解禁となった今、誰よりもこの本の著者に会いたいと思った。本のタイトルは『近未来の<子づくり>を考える〜不妊治療のゆくえ』(春秋社)で、その著者が久具宏司(くぐ・こうじ)さん。体外受精の導入期から30年以上の長きにわたって不妊治療に携わってきた産婦人科の医師である。不妊治療(あるいは生殖医療)の現場で個々の患者と向き合ってきた経験と肌感覚が書かせた渾身の書き下ろしである。無自覚に、ただ資本の欲望のままに、坂を転げ落ちるように突き進む社会の未来に警鐘を鳴らす。欲しいときに欲しいこどもを計画的に作り出す「デザイナーベビー」が当たり前になる時代がすぐそこまで来ている。これは本当にわたしたちが望むゆたかな未来の姿なのだろうか? 

「ダイアログフォ―ライフ」は、久具さんとの対話からスタートする。エリート医師のプロフィールを持つが、お会いしてみると、本の行間から感じ取れた印象と変わらない、地域で頼られる町医者のような実直さが伝わる先生だった。

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本の中でもっとも目を奪われ、何度も読み返してしまった大事な箇所を以下に抜き出しておく。着床前診断に警鐘を鳴らす医師・久具宏司の真骨頂だ。久具さんは、「小さないのちの問題」の大きな問題の本質をストレートに投げかける。
さあ、どう考える?

(着床前診断によって)人工妊娠中絶を回避することができる。これは妊婦にとって朗報であるばかりでなく、産婦人科医にとっても人工妊娠中絶術を行わなくて済むことになり、好都合である。これは疑いようのない真実であろう。しかしながら、この考え方は、妊婦および医師の立場から見た場合の真実であり、一面的なものと言える。排除される側に立つと、胎児というヒトの形をとり心拍や体の動きが出現することもなく着床する前に排除されてしまう着床前診断という処置は、妊娠中絶による排除と比較すると、より残酷な処置と見ることもできる。着床前診断を行なうことによって、人工妊娠中絶にともなう母体の身体的・精神的苦痛を回避できるという利点は、言い換えると、何の代償を払うこともなく障害のある胚を排除できるということである。排除される胚の立場としては、より一層残酷さが増すとも言える。着床する前の胚が、その立場というものを顧慮されるべき存在であるか否かは大いに議論すべき点であり、この議論によって、着床前診断の是非の判断も変わってくるであろう。
(『近未来の<子づくり>を考える』138-139p)

●久具宏司(くぐ・こうじ)
1957年うまれ。産婦人科医師、医学博士。福岡県出身。東京大学医学部卒。
東京大学附属病院をはじめ数々の病院勤務の後、富山医科薬科大学(現富山大学医学部)講師、東京大学講師、東邦大学教授を経て、現在は東京都立墨東病院・産婦人科部長。その間にジョンズ・ホプキンス大学、ハーバード大学マサチューセッツ総合病院に留学。
東京大学附属病院では体外受精の導入に従事し、富山医科薬科大学では県内初の体外受精成功事例に携わる。日本産科婦人科学会倫理委員会副委員長、日本学術会議「生殖補助医療の在り方検討委員会」幹事などを歴任。
●池田正昭(いけだ・まさあき)
マーチフォーライフ実行委員会代表。
元雑誌『広告』編集長

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不妊治療からデザイナーベビーへ

池田:どういう経緯でこの本が誕生することになったのでしょう? この本がなければ先生との出会いもなかったわけですが。
久具:不妊治療を30年以上も昔からやってきましたが、どうも最近おこなわれているのが、われわれが昔からやってきていた不妊治療とはちょっと違うものになってきているんじゃないか、という違和感がありました。別に不妊でもないのに、子どもを計画的にうまく作りたいと考えるひとたちの手段として不妊治療が使われていると常々けっこう感じるようになったんですよね。それがひとつには女性が妊娠しようと思う年齢が高くなってきているからやむをえずそうなっている面もあるけれども、それだけじゃなくて、普通に妊娠して子どもを作ればいいのにと思えるひとがあえて不妊治療を使って、つまり体外受精で思ったとおりに妊娠するというケースが最近少なくないと感じたものですからね。それがそのまま突き進むと将来的にどんな社会になるのかもうちょっと慎重に考えたほうがいいというふうに思ったものですから。5、6年前から感じていたことなんですけれど、なかなか筆がすすまなくて昨年一気に書き上げました。私と同じように、あまりにも行き過ぎた医療技術の介入が必ずしもよい結果にはつながらない、という考え方をお持ちの数人の研究者との交流も執筆の支えになりました。 
池田:長年、現場をやってこられたんですね。どれくらいの出産に立ち会われたのでしょうか。
久具:出産件数はそれほど多くないですよ。自分が関わったという意味では5、6千から1万くらいあると思いますが、直接手がけた数としてはせいぜい2千か3千ですね。大学病院にずっと籍を置いてきて、この10年間は都立病院にいますけれども、おおむね若い医師に任せるんですね。自分自身が直接携わるというのはそんなに多くない。私が行かなければならないときはけっこうたいへんなケースになるので。
池田:出産とともに、不妊治療に関わってこられた。
久具:私が不妊治療に深く関わっていたのは、むしろ21世紀になる前ですね。体外受精は20世紀に始まっており、その導入の頃から関係していますけれども、当時は体外受精に頼り切りになる今のような状況とは全然違っていた。
今、5組に1組が不妊治療を受けると言われていますけれど、5組に1組が本当の意味で不妊かどうかはわからないわけですよ。普通に子どもを作ろうと思ったら半年や1年のうちにできちゃう可能性は十分あるにもかかわらず、早く欲しい、計画したときに欲しいという要望から不妊治療を受けるケースが相当あると思います。それが一概にダメだとは言いません。本人が望むのであれば…。
池田:不妊治療というカテゴリーには当てはまらないのかもしれませんね。
久具:そうそう。それが言いたかったわけですね。それも「不妊治療」といってしまうとおかしいだろうと。本当の不妊治療というのは欲しいのにできなくて悩んでいるひとが受けるべきものであって、そうじゃなくて本当は出来るはずなのにあえて不妊治療をうけるひとが確実に増えている。
池田:不妊ではないどころか、実は「デザイナーベビー」を求めて生殖補助技術を選ぶひとが不妊治療の保険適用を受けることになるとしたらおかしな話ですね。
久具:現在でも全体の1割か2割ぐらいは、ぜんぜん不妊ではないと思われるのに不妊治療を受けている気がします。統計はないので実態はわかりません。でも、これからますます増えてくるでしょう。
デザイナーベビーという方向に増えていくのはなぜいけないのかというと、計画通りに子どもを作ることがいけないとは言わないけれども、計画通りに子どもを作りたいというモチベーションが高まってくると、出産の時期だけでなくそれ以外のことでもすべて計画的にやっていいんだという気持ちにどんどん傾いていく。同じ子どもを作るんだったら、じゃあ能力のある子どもがいいとか、そういう「優生思想」に繋がりかねないところで技術を使ってしまう危うさがある。だから、そうなる前の入口のところで十分考えたほうがいいというのが私の主張です。

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代償を払う中絶、代償を払うことなく排除される胚

池田:実際に不妊治療をやっている産科医で久具先生のような慎重論を語るひとはほとんどいないと思うんです。先生のそうした姿勢の根底にあるものは何でしょう? 
久具:根本にあるのは、子どもを作る生殖という行為はできるだけ自然に任せたほうがいい、ということです。
池田:生殖を自然に任せられない、本当に不妊で悩んでいるひとのために使う技術が不妊治療であるのに、そこが曖昧なまま、デザイナーベビーを志向する可能性を黙認しつつ、ついに着床前診断が解禁になった。
久具:産科婦人科学会の着床前診断の審査会に前から関わっていたんですけれど、私としては解禁してほしくなかった。産婦人科医ではっきり反対と言っていたのは私ぐらいですが、小児科の先生は比較的反対するひとが多かったですね。
これは問題が難しくて、本の中にも書いたんですけれども、産婦人科医にとっては、体外受精をしたときにその妊娠が流産をしないできちんと子どもができるところまで行きたい。そのためには着床前診断をしたほうが流産をする確率を格段に減らすことができるという、たしかにそういう側面もあるわけですよね。
池田:流産をゼロにできるとしたら、それは大きなメリットですね。
久具:間違いなく大きなメリットです。流産というのは、言ってみれば病気ですからね。病気を無くそうとするのは、医者として考える当然なことであるわけですよ。そういう意味では着床前診断はやるべきだということになる。けれども着床前診断というのは、よくない胚を排除するための行動です。それはいわゆる障がいをもっている人を排除することそのものなんですよね。
池田:先生は本の中で「排除される胚の立場」について言及されていました。まるまる引用させていただきましたが、強烈な問題提起をされたと思います。胎児の妊娠中絶に反対するいわゆるプロライフでも、胎児よりも胚の排除のほうがより残酷ではないのかという発想はなかったでしょう。
久具:現場の産婦人科の医者はつねに女性を見て、女性の立場になり切ってしまうんですよ。女性の立場になり切ると、もう胚の立場なんて考えることができなくなってしまう。
池田:何の代償を払うこともなく胚の排除がおこなわれるのに対し、胎児の妊娠中絶には代償が払われている、ということですか? 代償とは、たとえば良心の呵責とか?
久具:良心の呵責もあるでしょうし、肉体的な痛みとか苦しみもありますよね。実際に中絶手術を受けたほとんどの女性がもっているものだと思いますが、それは女性だけのものではありませんね。私の父は産婦人科の開業医でした。昭和30年代から40年代にかけて、私は子ども時代を診療所で過ごしました。家の中でね、お産だけではなく、中絶をやっているんですよ。小学生ですから意味はわかってないですけれど「中絶」という言葉は聞こえてくるし、妊婦さんが運び込まれてくるのも見ているわけです。それから、ときどき両親と何処かドライブや家族旅行に出かけた際に、行った先で何か寺社を見かけたりすると、急にクルマを停めて「水子の地蔵がないか」って探して、わざわざお参りしたりするんですよ。子どもの私には水子の意味もよくわからなかったでしょうけど、産まれてこなかった子どものために祀ってあるものなんだろうってそれぐらいは感じていたと思いますよ。いま実際に自分が仕事をするようになってみますとね、やっぱりそういう気持ちがわかるんですね。
池田:水子供養は、体のいいビジネスになっていると批判もされますし、それで本当に赦されるものなのかどうかわかりませんが、産まれる前に流してしまった子どものために代償を払おうとする日本人特有の文化ではないでしょうか。
久具:そう思いますね。
池田:中絶の権利を推進したいプロチョイスのスローガンの一つに「Abortion on demand and without apology」というのがあります。前半はわからなくもないです。それが権利だったら、たしかにオンデマンドで行使できるようになるべきでしょう。でも後半の「without apology」は、意味としては「詫びは要らない」と言っているわけですが、つまり「代償を払う必要はない」ということですね。これは何か日本人には受け入れ難いのではないでしょうか? 西洋の個人主義の文化は自分だけが前を向くことを奨励するのかもしれませんが、日本人の精神性としてはどうしても子どもを置き去りにはできないですね。どんなカタチをとるにせよ「水子」というものに手を合わせない中絶はありえない気がします。
久具:喜んで中絶をやっている医者なんかいないですよ。産婦人科の医者というとそういうふうに見られがちですけどね。中絶はやってはいけないことなんだけれどやりたくてやっているひとは一人もいない。そういうことですよ。中絶に関しては、みんななかなか正直に話す場がないですよ。黙って水子に手を合わせるけれど、他人に語ってはいけないような文化が日本には根強くある。
池田:中絶は誰だって嫌だし、ないほうがいいに決まってるし、仕方なくやらざるをえないものだと思うのが普通の感覚でしょう。その当たり前の感覚が、なぜか世界では共有されないようになっている。

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受精の瞬間と着床の瞬間と

久具:胎児のときから人なんだと考えるのは普通のことでしょう。宗教も関係ないですね。カトリックも仏教も変わらないでしょう。
池田:そうですね。カトリックでは「When does Life begin?」と聞かれたら
「at conception」と答える
ように教わります。「Conception」って日本語だと「受胎」ですかね。
久具:妊娠が成立する着床した段階から人であると…。
池田:あっ、昨今そこが揺れるところなんですが…。
久具:でしょ。
池田:「Conception」というのは、受精(Fertilization)のことなのか?着床(Implantation)のことなのか? 日本語で「受胎」と言ってしまうと限りなく着床に近そうな感じですけどね。
久具:受精した胚の段階でこれはもういのちなのではないか。そういう問いが発せられることはこれまではなかったんですよ。なぜかというと胚というものがね、人の身体の外で生き続けるということはなかったんですよ。20世紀の終わりに体外受精ができるようになって、人間の女性の卵巣から卵子を取り出して身体の外で胚が作成できるようになった。そのまま培養できるんですよ。しかも凍結して保存もできる。そうなると、これ何なんだ? これはどういうものか。生命なのか何なのか。今までそこの大事な議論が尽くされてこなかった。見れば、無味乾燥で細胞の塊ですよ。だからとても生きているようには見えないですよ。見えないですけれどね、女性のからだに戻したらそこからひとつの生命ができてくるわけじゃないですか。だからそれを単なるモノとして扱うのはおかしいんじゃないか、っていうのが私がいちばん言いたかったことなんです。もともとは受精も着床も同じ女性のからだの中で起こることなので「どっちだ」というのはあまり問題じゃなかったんですよ。ですが、受精から着床の前までを女性の体外で存在できるようになり、そこもしっかり区別しなくてはいけなくなった。
池田今年のマーチフォーライフの参加者に聞いたら、ほぼ全員が生命の始まりは受精の瞬間と答えていました。
久具:受精の瞬間と着床の瞬間。生命の始まりにはその両方あると思うんですよ。
池田:二段階あるということでしょうか。
久具:初めの受精の瞬間の受精卵を完全な生命とみなすとすれば、その生命は両親との関係はどうなるんですか?
池田:キリスト教的には、両親とは別個の、神から愛される一人の人間だということになるでしょうね。
久具:そうなると現状の日本の場合はですね、凍結されている受精卵がたくさんある、それこそ無数にあるんですよ。そこを考えざるをえないんじゃないですか。それにやっぱりその受精卵の問題だけじゃなくて、卵子だけの場合や精子だけの場合もある。凍結卵子はそれが取り出された女性のものですね。胚もそれが由来している元のお父さんだったりお母さんだったりにくっついているものだから、というふうに考えないといけないんじゃないですか。受精卵が勝手に行動していいということになるとね、親とは違う他のひとが誰か欲しいと言ったら持っていってもいいですよということになるのはどうなんですか?
池田:難しいですが、原理的にはそれも認められていいのではないでしょうか。
久具:それを認め始めるとね、もう際限がなくなります。これは「死後生殖」にもつながることになるので、私が思うにはやっぱりその受精卵に由来する父親と母親がどちらか一方でも死んでしまったらその段階で受精卵を廃棄すべきです。産科婦人科学会が見解を出しているわけではありません。誰もそんなことは言っていません。あくまでも私個人の考えです。
池田:これまで日本で両親の死後まで保存された胚はないんじゃないですか?
久具:いや、わからないですよ。いつのまにか時間が経っているということもあるかもしれない。親から「もう凍結しないでください、廃棄してください」と言ってもらえたらまだいいんだけど、必ずしもそうではない。親との連絡がつかなくなって廃棄できないからそのまま置いておくクリニックもあるわけですね。
池田:廃棄できずに保管を続けるのはクリニックにとって大きな負担ですか?
久具:たいして負担じゃないですよ。ただまとめて置いておくだけですから。費用はかかりますが。
凍結する胚は特殊な液体の入ったストローの中に浸け置いて、それをマイナス200℃くらいになった液体窒素の中で保管するんです。体外受精で産まれる子どもが年間5万人くらい。で、その陰で、保存だけしてあるものが10倍はあるでしょうから、いわゆる余剰胚というのはもしかすると百万くらいあるかもしれない。
池田:そのひとつひとつが、ぜんぶこれ人間なんですけど…ということになったら、どうやって救済したらいいのか途方に暮れてしまいますね。
久具:そうなんですよ。それにそもそも人間だと言ってしまったらね、廃棄することが躊躇われますよね。
池田:まさにそこからちゃんと考えないといけないんだと思います。とりあえず廃棄さえしなければ、まだ胚は死んだことにはならないわけですから、いつか救済できる可能性も残るわけですよね。胎児になる前の、人のいのちの始まりの最初の段階である受精卵。こっちのほうにもっと目が向けられるようにならなければなりません。感情的に中絶反対とだけ言っていても何も「小さないのちの問題」の解決にはならない。
久具:いまお話したような胚の立場についての具体的な提言はこれまでなかったと思います。私の個人的な見解を述べたまでですが、あの本が、この問題をちゃんと考えてこなかった社会に風穴をあける役目を果たしてくれることを願っています。

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不妊予防の唯一の解決策は「若いうちに産む」

池田:国民的議論が始まるきっかけになるといいですね。
久具:いちばんそれに関わっているはずの産婦人科の医者もあまり考えていないですよ。世の中の産婦人科のクリニックには受精した凍結胚がたくさん眠っているというのに。
池田:保存されている凍結胚の数、および廃棄される胚の数はどれくらいなんでしょう?
久具:わかりません。学会で報告を受けているのは何例妊娠したか、そして何例そこから子どもが産まれたかだけです。そこはちゃんと報告を受けているんですけれども、受精卵をいくつ保存してあるかはまったくわからないですね。胚はたくさんできますよ。たくさん作ったほうがいいから。その中から1個か2個か妊娠すればそれでいいわけですよね。で、残ったものは余剰分としていちおうとってあるんですよ。ケースバイケースですけれども、一回の体外受精で10個くらい作ることもあるんじゃないですか。
池田:その10個から選ぶわけですね。選ぶこと自体、ある意味で着床前診断と変わらないのでは? 
久具:そうです。選ぶときに、その選別を確実にするために着床前診断を使う。そういう技術を使わないで選ぶ方法は、これまでは顕微鏡を見て、これキレイだからこれにしようっていう…。
池田:キレイだといいんですか!?
久具:そう考えられているんですけれど、まああまり根拠はないしそんなに確実じゃない。だけど着床前診断をしたら、見栄えのしない胚であってもきちんとした良好な胚と判断できるようになる。胚の確実な選別のために着床前診断は広くおこなわれるようになるでしょう。今いちおう考えられているのは、何度も何度も流産を繰り返すひとだけを対象にしようということにはなっています。でも、そんなのはすぐに破られると思うんですよ。だって女性の側からしてみたら何度も何度も流産を繰り返すのを防ぐだけじゃなくて初めから流産したくないですよ。一度も流産したくないと思うのは当然ですから、最初からそれやってくださいという話になりますよね。
それとね、いま産婦人科ときくと、どんな仕事をしていると思われますか?
池田:産婦人科のお医者さんですから、やっぱり赤ちゃんを取り上げることがお仕事でしょう。
久具:昔はそうでした。でも今は、お産をやっている産婦人科医というのはもちろんいますけどそんなには多くない。話題になっている着床前診断にしても体外受精にしても、生殖医療を手がけている医者っていうのは基本的にそれしかやっていない場合が多い。妊娠したら、はいそれまで、なんです。患者さんがどんな患者さんであろうと、不妊でない女性であろうと「体外受精やりましょう」それ一択、そうなりがちなんですね。もちろん、真に不妊かどうか見極めたうえで、必要な女性に対して体外受精を行う、良心的な医者も少なからずいます。しかし、女性にとっても、子どもが得られればそれでいい、自分が不妊かどうかは重要ではないわけです。医者にしてみたら患者さんがたくさん来てくれたらそれでいい。はっきり言って不妊治療という名のサービスを提供するビジネスになってしまっている。ビジネスにひとつ付加価値が加わったのが着床前診断です。
池田:妊娠から分娩までトータルで女性を診るお医者さんが少なくなるほど、不妊傾向は加速するばかりでしょうね。
久具:この本の中で最終的に結論として書いているのは、できるだけ若いときに産みましょうということなんです。もし若いうちに産めるなら、不妊治療もしなくて安心できるひとが多いわけですよ。ごく普通の妊娠をしてくれたら女性も社会も助かるわけですよ。
池田:不妊は加齢によるものが大きいでしょうし、出産も高齢になるほどリスクが高くなりますね。対照的に10代だと、ぽーんと産んで帰るという話をよく聞きます。
久具:さすがに10代で産むことを奨励はできません。しかし、本当はやっぱり女性は若いうちに子どもを産むことに努めてほしいんですよね。こういうことを言うと、女性を「産む性」と決めつけているとして非難されそうですが。
池田:10代の妊娠出産は危険というのが常識になっているようですが。
久具:それはなぜ危険かというと社会的に危険なんですよ。社会的な安定を得た後の出産が安全だと。しかしそればっかり言ってると年齢だけが上がってきちゃうから。人間のからだというのは、どうしてもどんどん歳をとり加齢していくわけだから。とくに女性のからだの中の卵巣は初めからどんどん歳をとるしかないわけですから。
池田:胎児のときが卵子の数がいちばん多いんですよね。先生の本ではじめて知りました。女性のからだは、産まれる前から老化が始まっているわけですね。
久具:それ以降はもう作られないわけですから。初産の平均年齢が30歳を超えてしまいましたが、30歳の卵子というのは30年前に作られたものなんですよ。それをもっとみんなにわかってもらわないと。30歳40歳になってからわかってもしようがない。それまでにわかっていないといけない。早いうちにその真理がわかったうえで、たしかに10代で産むのは早過ぎるかもしれないけれど20代になってすぐぐらいのときに安心して子どもを産めるようなそんな社会が目指されないといけないんです。そのためには、中高生の段階で卵子の真実を知っておく必要がある。
池田:年齢的には大学時代に妊娠出産するぐらいが望ましいということですかね?
久具:そっちのほうが自然なんです。
池田:就活している学生のなかに妊娠しているひとがまじっていても許される社会になってほしいですよね。
久具:そうそう。そういう社会にならないと解決しない問題なんです。
池田:妊娠していることで就活の不利益にもならないし、子どもがいるからって将来のキャリアを心配する必要もないし、面接官に「おめでとう」と言ってもらえるようなそんな会社がいいなぁ。
久具:そこを目指す以外ないんです。若いうちに安心して女性が産みたいと思える社会をつくっていくことがこの問題の唯一の解決策なんです。

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18番目のゴールと5つのターゲットをめぐって

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池田:「持続可能な開発目標SDGsに18番目の目標を」というアピールを始めていまして。SDGsは「誰一人取り残さない」というモットーを掲げているんですが、だったら産まれる前の人もそこに加えてよというわけです。それで、この18番目のゴールにはアイコンが2つあるわけですね。産まれる前に二段階あることをちゃんと図示しました。胎児と胚。
久具:胚の立場も加えられているのですね。いいと思います。
池田:それからSDGsのフォーマットにならって、ターゲットというのを5つ設定しています。①から③は胎児に関すること、つまり妊娠中絶を減らすための取組み課題です。①の貧困をなくそうというSDGsの大目標が達成できれば自ずと中絶は減りますね。②と③は、いわば日本の母体保護法の規定を世界基準にしようというものです。子どもの障がいを理由にした中絶は認めないこと、母体外生存可能性が期待できる週数を過ぎた中絶は認めないこと、その2つです。今でもザル法の誹りを免れないかもしれませんが、日本が世界のどの国よりも近年中絶率を下げられているのは、この法律が曲がりなりにも機能しているからと思わざるをえません。
久具:他の国の中絶法と比べて、日本の母体保護法がちょうど理想的というのはたしかにそのとおりかもしれませんね。
池田:おそらく先生と議論になりそうなのが④ですね。「余剰胚の廃棄ゼロを目指す」というものですが、これいかがでしょうか。
久具:余剰胚ができないに越したことはないんですが、必要なだけ胚が作れたらそれでいいんだけれど、どうしてもやっぱり現在の体外受精の技術では多めに胚を作ってその中から妊娠するところまで持ってこざるを得ないわけですね。そうするとどうしても余剰胚が出てくる。廃棄ゼロを目指すというやり方がどんなことなのかわかりませんけど、そのカップルにとっては余剰になるけれど、その胚はじゃあ他のひとに使いましょうと、たとえばそういうことでしょうか? そういうことを目指すんだとすると、う〜ん、私はちょっとそれは違うんじゃないかと思いますね。
池田:でも、考え方としてはありえますよね? 
久具:考え方としてはね。胚もいのちなんだからそんなに簡単に捨ててはいけないだろうというのはもちろんありますよ。しかし私は、胚はその由来している男性女性に紐づいていると考えていますので、少なくとも男性女性のどちらかが死んでしまうときにはこの余剰胚も死ななくてはならない。そう考えます。
池田:もしかしたら百年後、あるいは二百年後に、その胚がこの世に誕生することを受け入れる社会ができているかもしれない。そう考えることは、いつ廃棄されるかも知らず眠らされている胚にとって希望なんじゃないでしょうか。
久具:まだまだ全然解決できない問題ですからね。とことん議論し尽くさなくてはなりません。
池田:さいごの⑤は、視点を大きく変えて、「自然妊娠・自然出産の人類としての価値を次世代に継承する」というものです。 
久具:これはまったくそのとおりだと思います。大賛成。
池田:本当に必要としているひとには不妊治療が提供されながら、全体としては自然妊娠・自然出産が増え続ける社会が健全と言えるでしょうね。そのためには初産の平均年齢が少なくとも30歳を下回るようにはなってほしいですね。
久具:不妊を予防するには、とにかく若いうちに産むしかない。それを国は言えないんでしょうね。それを言っちゃうと女性を「産む機械」と見ているんじゃないかと叩かれかねない。
池田:そこも含めて、もっと真摯な議論が、対話が必要ですよね。女性が安心して早く結婚して早く産める社会に向かうためにはどうしたらいいか。
久具:べつに結婚しなくてもいいんですよ。
池田:産むのが先でいい?
久具:極端な言い方ですけれどシングルでもいいじゃないですか。「早く結婚しなさい」と言うとたいていの女性にはプレッシャーになりますから。フランスみたいにシングルが産みやすい社会ができたらいいんじゃないでしょうか。
池田:いまのお話を聞いていて、1982年に来日したマザー・テレサのことを思い出しました。中高生を対象に設けられたシンポジウムの席で、マザーはとつぜん女子たちに向かって妊娠中絶の話を始め、「未婚の母になるのを恐れないで!」と訴えたんです。結婚と妊娠の順番が逆でもいいという発想がカトリックの修道女から出てくるなんて驚きですよね。マザー・テレサにこの国の少子化担当大臣をやってもらいたかったですね(笑)
久具:SDGsで胎児と胚の立場をアピールするというのは、とてもいい試みだと思います。だけど(ターゲットの)4つ目だけはね。まったく何が正解かはわかりませんが、ただ余剰胚についての私の考え方はただいま申し上げたとおりです。

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【対話を終えて】

人のいのちの始まりに二段階ある。久具さんとの対話によって浮かび上がった重大な仮説である。受胎(Conception)とは具体的に何を指すのか、体外受精が始まって以降、そこが初めて問題になったと久具さんは言う。

この時代、「When does Life begin?」という問いに対する答えは、「Life begins at Ferlilization」か、あるいは「Life begins at Implantation」のどちらかになったということである。受精の瞬間か、着床の瞬間か。両者が並び立つことはない。真理は一つであるならば、どちらかが正しく、どちらかは誤りということになる。

しかし「Life」を日本語にすれば、「いのち」であり「生命」であり「人生」である。同じ「Life」でも言葉と概念の使い分けができる。だから日本語なら、人のいのちの始まりに二段階あることを証明できる。
人のいのちはいつ始まる?」という問いに対して二つの答えが並び立つ。

受精によって生命が始まる」のであり、そして「着床によって人生が始まる」のだ。受精は生命の始まり。着床は人生の始まりどちらも人のいのちの始まりの認識として正しいと言えるのではないか。

「無時間」の虚空の状態にある受精胚は、着床しない限り人生の時がスタートすることはない。この事実はしかし限りなく重い。どれだけ無味乾燥な細胞の塊であっても、胚として誕生した生命のプログラムは、たしかに人のいのちである。原理的にはそうである。しかし人生が始まっていないのなら、それはまだ人とは言えないのかもしれない...。 

日本語の言霊の中で、「いのち」と「生命」と「人生」がせめぎ合う。
「Life」という信仰において、「いのち」と「生命」と「人生」は三位一体なのではないか。そんなことを久具さんとの対話の終わりに考えた。

(写真:廣瀬真也

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