◆最後に頼りになるのは
「人類の幸福と個人の幸福は別々ではなく、つながっている」。ということを前号で見てきましたが、これは同時に、「人類の不幸は個人の不幸になりうる」ということでもあります。
周りが不幸でも自分だけは幸せでいる。それが困難なのは、フライパンの上でホットケーキを焼くとき、半分は裏返しして、残りの半分は表のままという「ひねりわざ」が難しいのといっしょです。あんまりうまいたとえじゃないかもしれませんが(笑)。
わたしたちは、なんでも都合のよいようにアタマの中で想い描いていながら、周囲の環境にたいしては、なかなかわかっていないことが多いですよね。その結果、「こんなはずじゃなかった」という【誤算】が起きてくることになるのではないでしょうか?
かといって、正しい情報さえ得ていれば大丈夫か。というと、そう簡単な話ではないと思います。では、いったい何を頼りにしたらいいのか? 結論からいえば、自分自身、デス。
しかもこの場合の自己とはもちろんフラフラした小我ではなく大我であり、偽我ではなく真我です。言葉で伝えるのは簡単ですが、実地に行うのはやさしいことではないですね。
なぜなら、悟った人間は別として、いまだ大我だとか真我だとか、そういう名で呼ばれる自己になれていないわたしたちがどうやってそこに達すればよいのか、皆目(かいもく)見当がつきかねる、というのが実情だからではないでしょうか。
◆暦はなぜ大切なのか
けれども、安心してください。ヒントはあります。わたしたちの祖先はちゃんとそのことを知っていたことに気づかされます。それは暦を気にしていたことにもあらわれています。暦の発祥は縄文の大昔にさかのぼります。いちばんイメージしやすいのが日時計です。そしてこれは農事の必要性と結びついています。季節ごとに気候が変化してゆくのに合せて、種まきをし、収穫をする必要がありますから。まきどきを間違えたら、なるものがならないから、知恵を働かせないといけません。それが安心につながります。
つまり、人間が心安らかに生活できるためには、外側の環境、天地自然のめぐりとつながって、宇宙の運行と正しくそのリズムを同期化することが前提だったと思われます。
いま、農業が危機に瀕しているのをご存知ですか。毎日、スーパーで野菜などを買っていながら、農家さんが赤字で自殺者が急増している日本の現実を知らない方も多いのがこの国の実情ではないですか。
◆天地の水火と自分の息、声、言葉を合せる
結局、一人ひとりが狭小なエゴイズムの殻を脱げず、幻想の城にたてこもっているあいだに、強大化した悪の力が黴(かび)のように増殖して入りこんできます。そこで、小我や偽我と呼ばれるエゴイズムの想いに支配されないよういつも注意をはらう一方で、宇宙の運行、天地自然のめぐりと意識をつなげ<接続>していさえすれば、悪を入れずにすむわけですね。つまり、自分自身に気づいていることです。気づける自己とは、宇宙、天地自然の氣と一つである自己なんですよね。
ここで、今回のタイトルである「天地の水火と人間の水火の同一なることを知る」の説明をいたします。水火は「いき」と読みます。同じ音にあてる漢字として水火のほか氣も息もあてることがあります。これは、杉庵<すぎのいお-号>志道(しどう)こと山口志道という江戸時代の言霊学者、神代学者の独創的な言霊学で言われていることなのですが、その主著『水穂伝』の序文の中でこう述べています。
「天地の水火と人間の水火と同一なることを知りて、家国を治むるの本(もと)は己が呼吸の息に在ることを知る」と。要するにマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)の相似象、照応関係です。しかもこの天地の水火と人の息は通じあうがゆえに、わたしたちは水火から割き別れた五十連(いつら)すなわち五十音の響きに各々御霊(みたま)の息吹が吹きこまれ法則をになった言霊というものを、ワンセット授かって、これを用いることができるんですね。人間にあたえられた特権です。ただ、どんな心で使うかですね。水火(いき)は天地にあり、音(こゑ)は人にありとも言われていますが、これも天地の音(こゑ)である言霊をつうじ水火をどう活かすかは、人間の心しだい、意志しだいということです。
「人が言(ものいう)ときは、天地の水火を動かし、天地の心を動かす」。「己が口中に低く唱うるのみでも天地に通じ」、正しい願い事なら天地神明に通ずるとも書いてあります。ただ、水火自体はニュートラル(中立的)な媒体なので、「吾悪を思わば氣(いき)悪に動きて、他また悪なることを知る」とあるので、悪い心で何かを言えばその影響は波動となって多くの人々の心に届いてしまう、ということでもあります。
◆知識のための読書か気づきを深める読書か
天地の正しいリズムや調和したバイブレーションとチューニング(tuning)して、心をととのえ、みずから考え、自分の言葉で語る。そのための書を読むことへと結びつけたくおもいます。
読書には2つのタイプがあるとおもうのですが…。単なる知識欲や好奇心の満足のための読書、不安をまぎらわすための情報集め、がまずあります。思考力は鍛えられにくいでしょう。それよりも「信じる/信じない」の二択での即決即断になりがち。相矛盾する情報やフェイクニュースを流しこまれると、なにも信じられなくなり、思考停止し、「なにが真実なんてワカンナイよね」という反応パターンが固定化してしまうかもしれません。「付和雷同」という語があります。自分にしっかりとした考えがなく、他人の意見に容易に同調し合せるという意味です。
もうひとつのタイプは、思考の対象に意識を向けつづけ、チューニング(tuning)し、アチューンメントすることが、理解を深めることになる読書法です。これをやってゆくと、他や自分を取り巻く世界への興味から出発しても、究極的には自己理解を深める助けになります。
ところで、「本を読んで自ら考える」習慣から離れると、人は<短絡的思考>に陥りやすくなります。「ふだんから考えていない」証拠に、安直に答えや結論を求めたがる。「これだ!」と信じると鵜呑みにし、安直に現実に適用します。質問にたいし、その場ですぐ答えてくれるものの典型は何でしょう? AIですね。AIは人間のように考えません。考えるのが面倒だと、「チャットGPT」に頼るといった新たな行動様式も生れています。
「本当に考えるとは何か」と述べ、「あなたがたはまだ知らない」と語った人があります(ダスカロスという人)が、意識の光(気づきを可能にする)ほど偉大なものはないことを忘れてはなりません。
最後に大切な提唱です。(自分はなぜそう考えるのだろう?なぜこういう印象を抱くのだろう?)と、心の中で常に問うことです。これは断定し、断言し、自分の考えや生き方は立場はこうだと政治家のように主張し、強弁することではありません。そうなると意識の盲点と死角領域ができてしまいます。そういう人は精神が硬直化し、違う考えの人と創造的に協力する可能性がなくなります。
自分の心に浮かんだ考えや印象や信念を疑うということは、「自分に自信がない」ということとは違います。逆です。勇気ある人なのです。なぜなら仮説を検討し、理解をより深め、それまでこれが自分と錯覚していた観念への固執を手放してゆくことにより、より自由で柔軟な精神を獲得してゆかれるのですから。そのために必要なのが【自己遡及】です。これができるか否か。ぜひとも推奨します。
◆心の病の名づけとラベリングの危険性と読書の大切さ
世の中で最も人の心を開かせない態度、心をキュッと閉じさせることは、相手の話を相手の視点に立ってよく傾聴することをせずに、自分の勝手な思い込みから、イメージをおっかぶせることです。相手は「決めつけ」られたと感じ、ハートを閉じ、自分らしい表現ができなくなります。つまり、真実あるがままを認めあうことのできない、窮屈な社会を産んでしまうことになります。
子どもにとって最初の環境である親とか学校の先生が、どんな姿勢で子どもに対するか、ということほど重要なことはないとおもっています。もちろん、本人が前の世、前の前の世で経験したり、つちかってきた物事による心の癖、想いの癖だってあるでしょう。
そうした問題を見ずに、心の歪みや病にたいして、医師の特権を利用して、「発達障がい」などの病名を標本のラベルのように貼りつけてしまうことで、自己探究の機会を奪っている今日の社会的現実をわたしは危惧する者の一人です。
その意味で、「いつも新鮮な気持ちで本のページを開くことって大事だなあ」と、大きな可能性を感じ、この仕事にワクワク感をおぼえつづけているのです。