新世代哲学マガジン ~非常識超越思考法への道~

第8回:真理のパラドックス

(2024.10.17)

真理のパラドックスとは自分の考えた概念なのですが、つまり「この世の真理がなぜ人間には分からないのか?」といったことを追究し、その理由を明確化しようとした考え方です。

命題「真理は分からない」

 

そもそも人間が生きる意味とは「この世の意味を分かる」とか「真理を理解するため」ではないですよね?一人一人生きている理由はそれぞれ違うし生きる目的も何をしたいか?はたまた夢とか人生設計や人生計画とかそういった考え方はすべて個人個人によって違います。だから、この世の真理を知りたいと思う人もいれば、知りたくないと思う人も当然います。それは本当に人それぞれだと思います。そして、例え真理を知りたいと思っても思わなくても一つだけ言えることは「もし人類に真理が分かってしまったらどうなるか?」ということです。この世の意味も目的も、我々人類が生まれてきた理由も生きる目的もすべて洗いざらい分かってしまったらどうなるでしょうか?それこそ無味乾燥の意味のない世界になりますよね?だからこそ、自分は「真理というのは分からないようにこの世界はできている。」といった持論を持っております。それは哲学を色々とあらゆる角度で考えた結果「なぜ哲学では答えは分からないのか?」について考えていった先にこの答えがありました。つまり「人間には真理は分からない。」あるいは「この世界の真理は分からないようにできている。」といったことです。

1.人間は真理を知りたい人もいるし知りたくない人もいる。
2.人間は真理を知ってしまうとこの世の意味がなくなる。
3.だから人智を超えた存在(神仏などを想定)は、人間にあえて真理を教えない。


こういった論理が成り立っていると思います。
つまり、真理とはあるようでない存在で、知りたいと思っても知ることができないものだとも言えます。そこにいくら人間が必死に理性や思考を駆使して哲学的に考えても答えが見つからない理由があると思います。そして、もちろん宗教でもそれが同じことが言えます。だからこそあえて神仏は人間に真理を明確に教えてないのかもしれません。

 
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 命題「真理はある」

 

また、別の観点で考えるともしこの世の人智を超える存在がいると仮定すると「何らかの証拠を地上に残すはず」と考えることもできます。なぜなら、何も人類に教えないでいきなり「死後罰する」となると、神が法的に人間を違法に罰することになり法的責任を果たしてないことになるからです。あるいは説明責任=アカウンタビリティーとも言えます。人智を超えた存在(この場合は神とする)がその説明責任を果たさないで、人類を罰するというのは極めて違法になると考えられます。(あくまで、人間界の常識に照らし合わせて考えるとそのように想定できる。)つまり、その神の法的責任≒説明責任などの所在については、何も根拠がないとおかしいという話になるので宗教など何らかの形をともなって書物としてこの世に現状残されていて形として認識できるものとして存在していると考えられます。

 

 

真理のパラドックス

つまり、真理とは以下の性質から成り立っていると考えられます。


「真理はあるが、真理は分からない」
「この世に真理はあるが、人間には分からない」


とでも言い換えられます。つまり「真理はある」という命題と「真理はないorわからない」

という矛盾したパラドックスが起きる訳であり、つまりいくら真理を探究しても分からないようにできていると考えることが可能です。これこそがまさに真理のパラドックスと言えます。何千年もかけても、哲学、宗教、科学、スピリチュアルなどありとあらゆる手法で解明しようと試みても答えがでないのはそのためだと考えられます。

 
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パラドック的論理ではこのような哲学的説明は可能である程度は証明できますが、結局どうしても主観が入るので例外も必ず出てくるとも考えられます。しかし、この真理のパラドックスは長年哲学し続けた結果として、個人的にはまったくの的外れな考察ではないと思ってます。

賛成意見、反対意見など色々な見解があると思いますが、ひとまず今回のテーマはこれにて締めくくりたいと思います。

 
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