なんだかわからないけどいいってのが実は最高だよね!?
音楽や芸術、好きな人のタイプに至っても
なんだかわからないけど、いいよねってのが一番良いんじゃないかしら。
例えば芸術や音楽に於いて、知るということは歴史や系譜がわかることで
それを知ることで審美眼の精度が高まり深みが出てくるというのはよくわかります。
例えば好きな人であれば、その人のことを知りたくなるのが人の性(さが)でしょうし
見えなかったことが見えてくるのは気分もいいことでしょう。
しかしながら、そこにばかり気を取られていると
逆説的ですが、本質をどんどん見失っていくような気もしますね。
どこかで逆転現象が起こって、このアーティストは誰々の流れを汲んでいるからきっと良いはずとか、この人はこういう性格だからぼくと気が合うにちがいないとか。
歳を取って物事を判断するときって、どっかに理由がないと不安になったりするわけだけど、そういうものを取っ払ってもいいじゃんっていえるものや、直感で良いって思ったものを無垢な気持ちで良いといえる感性はすごくベーシックな本質だし、40代になって、これからどんどんしたり顔になってくるときだからこそ、あえてそういう気持ちでいたいものですね。
人間は不確かなもので、作りだす作品も人間性もいい加減なものです。
いろいろ知っているつもりでも、実は全然違うということもありえるし
ひょんなきっかけでころっと変わることだってよくあることです。
ちょっと話が逸れるかもしれませんが、、
昔、三島由紀夫のエッセイに
『告白することなかれ』みたいなものがありました。
自分のことを告白・激白することで相手に何かをわかってもらおうというのは、甘えた考えで、下品なことだということが書いてあって、おおいに共感した記憶があります(違ったかな?)。
ぼくも甘えた考えの持ち主で、その上で人一倍下品なので
三島さんのエッセイに共感したくせに、そういう対応ができていない時も多々あって、
たまに酔っぱらって過剰に自分のことを知ってもらいたいと思って余計なことを告白してたりします(ウザです、ハイ)。
そこんところは気をつけたいところですな。
人間関係に於いては、育ってきた環境やバックグラウンドも違うわけだから
告白や激白をしあっていくと最終的には平行線で絶対に交わらないところも出てくるんだけど、そこで失望したりされたり、揉めたりするくらいなら、多くを語らず最初から違いを認め合って生きているほうがよっぽど健康的ですよね。
人と人なんて最初から分かり合えないんだと諦めるのではなく、そのくらいの距離感がちょうどいい、、みたいな。
とまぁ少し話は逸れてしまいましたが、
物でもアートでも人でも好きなら好きでいいじゃん!
なんだかわからないけど好きなんだよなぁっていうのはれっきとした理由だし、
それって最高じゃないですかね?